Wednesday, July 13, 2011

アーヌルフ・ペツォルトの思い出

原題:ARNULF H.PETZOLD 1905-1985 a retrospective by S.J.アーチャー

訳:岡見亮/滋賀県坂本

バンクーバーの日系人社会の人々と長年の友人であったアーヌルフ・ハイムダル・ペツォルト(Arnulf Heimdal Petzold)の生涯と経歴は日本文化に対する深い理解と愛情に特徴づけられる。それは彼独特の建築作品の中に生き返っている。

1905年イギリス、ロンドンに生まれ、才能に恵まれた建築家、学者としてその独特の洞察力は疑いもなく彼の天賦の才と視野の広い両親の影響に負うところ大である。彼のドイツ人の父ブルーノ(Bruno)は作家でジャーナリストである。かれはドイツ紙の海外通信員としてパリ、ロンドン、そして中国天津といった世界の中心で輝かしい経歴を積んでいた。ノルウェー人の母ハンカ・シェルデループ(Hanka Schjelderup)はかってパリでフランツ・リスト(Franz Liszt)に師事し世界的に知られる歌手、ピアニストになった。彼女はしばらく中国に滞在し、そこで日本への演奏旅行に招かれた。明治日本の西欧音楽に対する熱狂と相俟って日本の美に魅了された彼女は上野音楽学校の教師になった。

1910年妻と5才の息子について来日したブルーノは宗教祭典の華やかさに興味を持ち生涯仏教研究に情熱を注ぐことになった。第一次大戦勃発によりドイツ紙の仕事は途絶えたが、ペツォルト夫妻は平和的な敵国人は抑留しない寛大な日本の政策に助けられ彼らの関心事を追い続けることを許された。事実ブルーノは文部省から第一高等学校のドイツ語教師に任じられた。仏教への関心を深め、彼をして星野日子四郎、島地大等、花山信勝等の著名な学者の原典テキスト研究へと向かわせた。1928年その学究的業績と西洋で知られた天台教学に対する努力を認められ浅草観音寺(浅草寺)で特別儀式が執り行われた。その中でブルーノは大僧都という高い僧階に補任されると共に法名「徳勝」を与えられた。このようなことはかつてヨーロッパ人にはなかったことである。

成長期を東京で過ごした若いアーヌルフは独特の明治時代の言葉を身につけた。それは彼の性格を特徴付けることになった。彼はアメリカンスクールを卒業後ドイツに渡り建築学を学んだ。そこで彼が出会った若い女性は後にはるか遠い日本までついて行って彼の妻になった。

学業を終えて日本に戻った彼は1934年国際都市東京で事業を起こした。日本語が流暢でヨーロッパ仕込みの専門家に対する需要が多かったので様々の住宅や公共施設の設計契約を得ることができた。長年彼の設計は当時の外国人にも人気があった。ヨーロッパで学んだ技術に日本の伝統的な建築資材と熟練技能を融合させたものとして知られるようになった。しかし、東京のほとんどの建物と同様、彼のすばらしい建築の多くも第二次世界大戦の空襲で残らなかった。

1944年軽井沢の山村に疎開を余儀なくされたペツォルト一家(Arnulf、妻LieselとBruno)の暮らしぶりは劇的に変わった。農業を生活の糧として生きることで生活苦や労苦を皆で分かち合った。しかし、逆に生活の質は質素な生活に戻ることでより高まった。東京が破滅してしまったので彼ら(ArnulfとLiesel)は当時持っていたイギリスの旅券を利用することにし最愛の日本を離れカナダに渡った。

バンクーバーに移ったことで新たな生活がはじまった。やがてペツォルト氏は再び日本の伝統的概念の理解を建築様式に取り入れる機会を得ることができた。多くの個